平成29年 北海道鍼汪会 髙木 一地
神(神気)
『霊枢・本神』に「生の来るを精といい、両精相搏つ、これを神という」
とあり生命の根源であり生命活動を支配・統制している気である。
神は陰陽両精が交合して身体を形成した後に生じた
生命活動であり先天の精によって生成される
受胎の際に“生命の神”が生まれる。
神は先天の精において生成されるが
その後は後天の精の滋養に頼らなければならない。
この滋養が充満すれば五臓は調和し神の機能は旺盛となる。
故に神が満ちていると身体は充実し神が不足すると
身体は衰弱し神があれば生き、神がなければ死ぬ。
神の概念
人の運命をはじめ、この世の現象を支配するものとして
神(表の世界を支配するもの)と
鬼(「うら」あるいは「かげ」の世界を支配するもの)を
想定した鬼神思想というものが
気の思想が生まれる以前から中国にはあった。
神は人知で測ることができない不可思議な現象を指し、畏敬の対象である
鬼は夢に現われる亡くなった人の頭(顔)の強調された姿であり霊魂を指す。
東洋医学ではこのような概念を人体に導入した。
即ち五臓にあって人体の機能を支配・統制するものとして
神気(不可思議な働きをするこころ、魂、魄を含む)を考えた。
『素問・宣明五気篇』に
「五臓の蔵する所、心は神を蔵し、肺は魄を蔵し肝は魂を蔵し
脾は意を蔵し、腎は精を蔵す」とある。
神の分類
神を分類すれば神、魂、魄、意、志などが挙げられる(『霊枢』本神篇)。
このなかで神は最上位にあり他の神気を支配している。ときにより
魂魄は神の支配を受けずに独自の働きをすることがある。魂・魄は
人体のかげの活動(無意識的、本能的活動)を支配する。
『霊枢』:本神篇「故に、生の来たるを之を精と謂う。両精相い搏つ、
之を神と謂う。神に随い往来する者、之を魂と謂う。精に並びて出入りする者、
之を魄と謂う。物に任すゆえんの者、之を心と謂う。心は憶う所あり、
之を意と謂う。意の存する所、之を志と謂う。志に因りて変を存するは、
之を思と謂う。思に因りて遠く慕うは、之を慮と謂う。慮に因りて
物を処するは、之を智と謂う。」
1、神
①五臓のなかの心におさまっているもので、神気のなかで最上位にある。
神は生命現象そのものであり、生体のあらゆる活動を主宰している。
『素問』六節蔵象論篇
「心は生の本、神の変(処)なり。」
『霊枢』平人絶穀篇
「神は水穀の精気なり。」
『霊枢』天年篇
「神を失う者は死し、神を得るものは生くるなり。」
②神は心拍動(脈拍)や呼吸を適切に行わせる。
視る、聴くなどの知覚活動や思考、判断などの精神活動を主宰する。
又、手足の運動、顔の表情、言語表現などを正しく行わせる。
『淮南子』精神訓
「神なれば即ち視るを以って見えざる無し。
聴くを以って聞こえざる無し。為すを以って成さざる無し。
この故に憂患入ること能わざるなり。而して邪気襲うこと能わざるなり。」
③神が安定していれば心身共に健康で憂患が五臓を傷ることはない。
神が不安定になると脈拍の不整が起こり内外の邪に傷られやすくなる。
さらに悪化すると知覚異常(幻視、幻聴や嗅覚、味覚の消失など)や
思考、判断の異常(幻想、狂気など)や
運動機能の異常(半身不随、顔面麻痺、言語障害など)が起こる。
神が失われれば死となる。
2、魂
神が意識的活動を支配しているが魂と魄は無意識的、本能的活動を支配し
人格に深く係わる(日本語の「たましい」に当たる)。
魂は「云」が浮遊するものを意味するところから、
人の死後、肉体を離れてしばらく辺りを浮遊した後、
天に昇る陽性の霊を指し、「こころ」と密接に関係する
「たましい」のことである。
霊枢』:本神篇
「神に随い往来する者、之を魂と謂う。」
魂は陽性で飛謄しやすいものとされ
神の支配が薄れたとき(睡眠時、酩酊時、高熱時など)
夢や非合理的な空想、幻覚、幻想などが生まれる。
魂は五臓の肝におさまり、人の本性を支えている神気である。
魂が衰えると自己の信頼感が薄れて自信がなくなる。
魂が傷られると狂気となり現実と非現実の識別が
できなくなり、人格の崩壊が生じる。
3、魄
魄は「白」が朽ち果てた屍体の骸骨(白骨)を意味するところから
人の死後、永く屍体にとどまって離れず屍体が朽ちるとともに地に還る
陰性の霊を指し本能・肉体と密接な関係をもつ「たましい」のことである。
『霊枢』:本神篇
「精に並びて出入りする者、之を魄と謂う。」
このことから魄は陰性で沈抑しやすいものとされ肉体に密着した心的活動と関係が深い。
魄は五臓の肺におさまり
乳児の吸乳活動などの本能的行為や習慣化した日常動作を起こさせたり
痛みや痒みなどの感覚をもたらしたり注意を集中させたりするものである。
魄が衰えると気魄が不足し注意力が散漫となり、
物覚えが悪くなり皮膚感覚が鈍くなる。
魄が傷られると狂気となり他人を気にかけずに勝手な振る舞いをしたり
日常的な言語や動作を忘れたり、誤ったりする。
4、意
日本語の「おもう(思)」や「おぼえる(覚)」にあてはまるもので
単純な記憶や思考を含んだ心を指し五臓のなかの脾におさまっている。
『霊枢』:本神篇
「物に任すゆえんの者、之を心と謂う。心は憶う所あり、之を意と謂う。」
意が傷られると「おもい」に苦しみ、こころが落ち着かなくなる
5、志
日本語の「こころざし(志)」にあてはまるもので
目的を持って思ったり、思いを持続させる心で
五臓のなかの腎におさまっている。
『霊枢』:本神篇 「意の存する所、之を志と謂う。」
『霊枢』:本蔵篇 「志意は精神を御し魂魄を収め寒温に適い喜怒を和す、ゆえんの者なり。」
志が傷られると、記憶の混濁や忘却が生ずる。
6、思・慮・智
思、慮、智の三者は意、志とともに知的な思惟過程と関係する神気であり
神の統制下にある。
思とは、物事を工夫し考える心である。
慮とは、先の事を思いめぐらし、深く考える心である。
智とは、熟慮したうえで最善の判断を下す心である。
『霊枢』:本神篇
「志に因りて変を存するは之を思と謂う。
思に因りて遠く慕うは、之を慮と謂う。慮に因りて物を処するは、之を智と謂う。」
情動
現代では思考も感情も精神活動の一面とされるが
古代中国では神と情とは別々のものと考えた。
以下、神と情動、気と情動、五臓と情動について
1、神と情動
神は情動を統制し神が充実して健全に働けば、情動が人の心を乱すことはない。
神に乱れがあると情動のままに動いて人の心を乱しそれがまた神を不安定にする。
『淮南子』俶真訓
「神、清らかなれば嗜欲乱すこと能わず。」
『淮南子』詮言訓
「情に扶くる者はその神を害う。」
2、気と情動
喜・怒・哀・楽などの情動に変調が生じると
体内の気のめぐりに影響を与え様々な弊害をもたらす。
『素問』挙痛論篇
「怒れば気上がり、喜べば気緩み、悲しめば気消え、
恐るれば気行らず、驚けば気乱れ労すれば気耗り、思すれば気結ばる。
3、五臓と五情(五志)
怒・喜・思・憂・恐の五情に変調があれば
特定の臓器に障害をもたらす病因となる。
『素問』陰陽応象大論篇
「怒は肝を傷り、喜は心を傷り・・・・・・」